アシュケナージの新旧の『悲愴』ソナタ
旧ソ連出身のピアニストで指揮者のヴラディーミル・アシュケナージ。卓越した技術、豊かな詩情、そして幅広いレパートリーと三拍子揃って録音も数多いですが、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作品も録音がたくさんあります。
J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集が「旧約聖書」、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタが「新約聖書」とも例えられますが、アシュケナージはどちらも全曲録音しています。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは1971年に録音した第32番Op.111から全集を開始し、1980年の第29番『ハンマークラヴィーア』Op.106と第8番『悲愴』Op.13で完了しています。全集には1981年に録音されたアンダンテ・ファヴォリWoO57も収録されていますが。
しかしアシュケナージにはこちらの記事で紹介した1972年の『悲愴』の旧録音もありますが、全集に採用されたのは1980年12月の新録音のほうでした。国内盤では1972年盤が1972年5月にアメリカ・イリノイ州のクラナート・センターでの録音と書かれていますが、ソロ録音全集では1972年12月のキングズウェイ・ホール収録と書かれていて、どちらが正しいのかよく分かりません。
この2つの録音の違いを聴き比べてみましょう。
演奏時間の違い
まず、1972年盤と1980年盤はどちらもセッション録音で、場所はデッカ・レーベルが愛用したイギリス・ロンドンにあるキングズウェイ・ホール (Kingway Hall)。
演奏時間は少し違っていて、1972年盤が第1楽章8:52、第2楽章5:19、第3楽章4:59に対して、1980年盤はそれぞれ8:33、5:00、4:58。楽譜に忠実なアシュケナージらしく、第1楽章の提示部の繰り返しは新旧どちらも守っています。第1楽章と第2楽章が1972年盤のほうがゆったりとしています。
Graveの序奏
違いが明らかなのは第1楽章の序奏。Grave (グラーヴェ、荘重に)という指示があるここで、1972年盤では最初のハ短調の和音を強烈に弾いた後、あたかもフェルマータがあるかのように間をたっぷりと取っています。それに対して1980年盤では間が少し短くされています。さらに1972年盤ではGrave の弱音 (p)が優しい性格を持っているのに対し、1980年盤はどこか心細い心情を描き、フォルテッシモ (ff) の強烈な和音が抗えない重たい運命を感じさせます。
和音の鳴らせ方は1972年盤では熱情のような赤い色、1980年盤では低音がより強調され黒い色のように聴こえます。第1楽章提示部(Allegro con brio)の第1主題は1980年盤のほうがテンポが速くなっていて、レガートになり打鍵がより滑らかになっています。これにより疾走するかのような緊迫感が生まれています。さらに第2主題では軽やかになり、第3楽章のRondo との関連性を感じさせます。1972年盤では『熱情』ソナタのような火花散る演奏でしたが、1980年盤ではより重厚感を増した演奏になっています。
第1楽章では違いがはっきり出ていましたが、その一方で第2楽章と第3楽章は違いがあまり無いです。1980年盤のほうがよりレガートで音質がクリアということぐらいで、演奏解釈はかなり似ています。
まとめ
ヴラディーミル・アシュケナージのベートーヴェンの『悲愴』ソナタの2種類の録音の違いを紹介しました。どちらも素晴らしい演奏ですが、私は1980年盤のほうが重厚感があって好みです。
ピアノ:ヴラディーミル・アシュケナージ
録音:1972年12月1日, キングズウェイホール (旧録音)
1980年12月8, 9, 11-13日, キングズウェイホール (新録音)
試聴
受賞
新録音を含むピアノソナタ全集が1981年度の日本のレコード・アカデミー賞「特別部門/全集・選集・企画」を受賞。
コメントはまだありません。この記事の最初のコメントを付けてみませんか?