試行錯誤か、エフゲニー・キーシンの独創的なショパン・バラード全集(1998年)

エフゲニー・キーシン プレイズ ショパン

このアルバムの3つのポイント

エフゲニー・キーシン プレイズ ショパン
エフゲニー・キーシン プレイズ ショパン
  • エフゲニー・キーシンによるショパンのバラード全集、子守唄、舟歌、スケルツォ第4番のアルバム
  • さざ波のような細かな打鍵
  • 試行錯誤か迷いか?独創的な解釈

1999年はフレデリック・ショパンの没後150周年のアニバーサリーで、20世紀を代表するピアニストが様々な演奏、レコーディングをおこないました。クリスティアン・ツィメルマンは自ら設立したポーランド祝祭管弦楽団を指揮してピアノ独奏も務めるという「弾き振り」でショパンのピアノ協奏曲2曲を録音していますし、マルタ・アルゲリッチもシャルル・デュトワ指揮モントリオール響とピアノ協奏曲2曲を録音しています。マウリツィオ・ポリーニはバラード全集を録音、そしてヴラディーミル・アシュケナージは後期のピアノ作品集を録音しました。

そしてエフゲニー・キーシンも1998年にショパンのバラード全集を完成させています。カップリングされているのは、子守唄Op.57、舟歌Op.60、スケルツォ第4番Op.54と、バラード第4番Op.52と作曲時期が近い作品です。

エフゲニー・キーシンはわずか12歳でコンサートでショパンのピアノ協奏曲を演奏するぐらいの「神童」ぶりで、10代後半になっても高い技術力と青春期特有の繊細なニュアンスを出して他のピアニストには無い印象的な演奏が多かったのですが、20代中盤に入り、ベテランの域になった1990年代後半では、迷いが見られるような気がします。超絶的な技巧は素晴らしいのですが、曲想のデフォルメがあり演奏の流れが悪くなっているところがあるため、私はこの時代のキーシンの演奏は少し苦手です。

このバラード全集も1998年8月の録音なので、キーシンが26歳のときですが、試行錯誤を感じます。おそらく今だったら全く違った弾き方をするでしょう。

ただ、キーシンはスタジオ録音だとイマイチになってしまうことがあります。これは本人も自伝で語っています。

ある作品がコンサートではうまくいっても、スタジオ録音ではそうはいかないことがときどきある。だいたいにして、私の場合はコンサートでの演奏を録音したほうが、スタジオ録音を上回る仕上がりになる。

エフゲニー・キーシン自伝 第3章「想いはめぐり」の「謙虚にならざるを得ない」節

このバラード全集のアルバムも残念ながらスタジオ録音です。

バラード第1番 ト短調 Op.23

キーシンのバラード4つの演奏の中で一番良いと思ったのがこの第1番。ヴィルトゥオーソぶりが遺憾なく発揮されています。冒頭はゆっくりと始まり、弱々しく、たっぷりと主題を歌っていますが44小節目あたりからの速いパッセージになると、キーシンらしさが全開になり、とても速い打鍵で聴く者を圧倒させます。そして67小節目のMeno mosso(それまでよりも遅く)に入ると、もったいつけるかのように音楽の進みを停滞させるぐらいデフォルメしてゆっくりにします。おそらくキーシンとしては速いパッセージとの緩急を付けようと工夫しているのだと想いますが、聴いている者からすると技術が前面に出て少し行き過ぎた感がする演奏でもあります。

バラード第2番 ヘ長調 Op.38

バラード第2番では、冒頭のAndantino(Andanteよりやや速く)でゆっくりと弾き始めます。弱音のピアノの打鍵が美しいです。そしてPresto con fuocoでは一気にものすごい速さで弾きこなしています。ただ、同時期のマウリツィオ・ポリーニの演奏を聴いたときに感じた嵐が来るようなあの激しさがここにはありません。ここはffの指示がありますが、キーシンのフォルテッシモはまだ生ぬるいところがあります。ただ、右手の16分音符の下降音はものすごく細かく、そして速いです。バラード全曲を通じて、この細かい打鍵の正確さは特筆すべきものでしょう。ただ、キーシンにしては珍しく、148小節目の冒頭で右手がもたれてしまっています。

たとえばバラード第2番の111小節では楽譜ではff(フォルテッシモ)なのですが、キーシンはf(フォルテ)ぐらいの強さで弾いています。135小節目の同じようなフレーズでのffでも同様に最強音にはしていません。キーシンはスコアに忠実に演奏するタイプだと思ったのですが、少なくともこのショパンのバラードでは指示どおり弾いていないところがあります。

最後から2小節目の202小節では、左手のミのオクターブと右手のレミソ#シをアルペジオにして演奏しています。キーシンがどの楽譜を使っているか不明ですが、私が持っているヘンレ版では、アルペジオの指示はありません。ただ、注釈を読むとこんなメモがあります。

It would seem that the final two chords in A are written with a continuous arpeggio.

Chopin Urtext Balladen, G. Henle Verlag

キーシンもこれを読んでアルペジオにしたのでしょうか。確かにアルペジオにすることでさらっと終わらずに余韻を持たせられると感じました。

バラード第3番 変イ長調 Op.47

私はこのショパンのバラード第3番では9小節目を特に意識して聴いています。左手と右手がラ♭のオクターブで、f>という記号が付いている箇所です。例えばヴラディーミル・アシュケナージの1964年の録音や、クリスティアン・ツィメルマンの1987年の録音では、右手の高音のラ♭が引き立つようなクリスタルみたいな透明感のある演奏をしていました。まるで「水の精」のようなイメージ。一方で、マウリツィオ・ポリーニの1999年の録音では、低音のラ♭を響かせ、雄大で劇的な効果をもたらせていました。こちらは男性的なショパンという感じでした。しかし、キーシンのこの演奏では、ただ全てのラ♭を力強く弾いただけで音がべちゃっとしています。このラ♭のオクターブの響きにこだわるピアニストもいる一方で、キーシンはここの部分は重要視していないでしょう。

ただ、81小節目以降のこの曲のサビの部分もさらっと演奏してしまうのですが、なぜだろうと繰り返し聴いているうちに分かったのは、キーシンはこのffの部分で、あまり中間音を引き出していないのです。低音と高音は聴こえるのですが、中間の和音がちょっと弱いので「薄い」感じがするのですね。

124小節目のleggiero(軽く、優美に)から始まるフレーズでは、さざ波のような右手の16分音符では細かい打鍵がすごいです。ただ、136小節目からのサビではまたさらっと進んでしまいます。細かい打鍵が難関のフレーズの157小節目では左手の16分音符が本当に正確でただただすごいのですが、結局キーシンがバラードでやりたかったことはこの細かい16分音符をどう完璧に演奏するか、というところだったように思えます。だから全体を通じてバラードらしさとかを感じなかったのかなと思います。

バラード第4番 ヘ短調 Op.52

このバラード第4番でも前半は少しゆったり目のテンポで、メロディラインははっきりと出してたっぷり歌わせつつ、弱音で美しく演奏されていきます。ただ、キーシン自体も弾いていて面白くないのか、間延びしている印象があります。どうも16分音符のうなりをどう切れ味鋭く演奏するかに主眼が置かれているようで、技巧的な印象です。フィナーレも力強いのですが、どうも音が発散して圧倒感が感じられません。何を目指しているのかが分かりづらい演奏です。

子守唄 変ニ長調 Op.57

子守唄は4分46秒の演奏で、楽譜のアンダンテの指示にしてはテンポが速いです。透明感ある美しい響きが癒やされるのですが、この速さでは緊張して子供は眠れないですね。

舟唄 嬰ヘ長調 Op.60

そっと始まる低音の後に、高音部が優しく語り始める。前半は少しゆっくりめで、丁寧に歌うように弾いています。主部に入ってからは高音のメロディラインと、低音の和音の伴奏のバランスが良く、聴いていて良い心地になります。ただ、テンポ・ルバートがイケていない。。時折駆け込むようにテンポを速めるところがあるのですが、作品全体の流れから浮いてしまっている感じがします。

スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54

このスケルツォ第4番はしんみりとした曲で、静かな海面の下で激しい流れが渦巻いているような、そんな対極的な作品ですが、キーシンのこの演奏は、激しく荒れ狂うような演奏です。技術的にはとても素晴らしい演奏なのですが、ダイナミックでフォルテのところでは力強くなりすぎて少々うるさく聴こえることも。どういう演奏を好むかによるのですが、穏やかなで繊細ながら少し熱いようなスケルツォ第4番を好む人には、このキーシンの演奏は眉をひそめてしまうでしょう。

確かにピアニズムはすごいものを持っていますが、独特な解釈で好みは分かれるでしょう。私はバラード全集だったら、違う録音、例えばヴラディーミル・アシュケナージの1964年の録音クリスティアン・ツィメルマンの1987年の録音などをオススメします。またキーシンがバラードを再録してくれたら聴いてみたいですが、この1998年の録音は神童からベテランへと進もうとしているキーシンの試行錯誤や迷いが出ているような気がします。

オススメ度

評価 :2/5。

ピアノ:エフゲニー・キーシン
録音:1998年8月5-7日, 南西ドイツ放送局スタジオ(フライブルク)

iTunesで試聴可能。

特に無し。1999年の米国グラミー賞「BEST INSTRUMENTAL SOLOIST PERFORMANCE (WITHOUT ORCHESTRA)」にノミネートするも受賞ならず。

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