このアルバムの3つのポイント
- 「鋼鉄のタッチ」と評されたエミール・ギレリスのベートーヴェン
- ライヴ盤の激しさとは違う教科書的な演奏
- ギレリスならではの力強さと詩情
27曲のピアノ・ソナタ選集から三大ソナタ集
ソ連出身のピアニスト、エミール・ギレリスは「鋼鉄のタッチ」と呼ばれる力強い演奏に定評があり、ベートーヴェンを得意としていました。ただ、1972年からドイツ・グラモフォン・レーベルで始めたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の取り組みは、1985年のギレリス逝去に伴い未完成に。27曲のピアノ・ソナタが遺されました。
選集とはなりましたが、ギレリスのピアノ・ソナタを愛聴する方は多く、CDも何度も再発売されています。
今回紹介するのは、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第14番「月光」、第23番「熱情」を収録した三大ソナタ集のアルバム。私は2006年にリリースされたThe Best 1000 (UCCG-5010)を持っています。当時、税込1,050円でした。今はCDの値段が上がってしまっているので1,650円ですよね。
ただ、ドイツ・グラモフォンでのギレリスのベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音は、教科書的というかオーソドックスになってしまったなという印象があります。ブリリアントクラシックスでリリースされたライヴ録音もあり、こちらは力強さと火花が散るような激しい演奏が特徴。私はギレリスらしさが出ているのはライヴ録音のほうだと考えています。ライヴ演奏では繰り返し(反復、リピートとも言います)は省略していたり、とてつもないスピードで弾ききったり、激しい感情をぶつけていましたが、ドイツ・グラモフォンでのスタジオ録音では繰り返しは守っていますし、テンポも中庸になりました。また、表現も少し丸くなった印象があります。
参考:1961年の「熱情」、1968年の「悲愴」、1970年の「月光」のライヴ録音の紹介記事(FC2ブログ)
さて「悲愴」、「月光」、「熱情」の順番に紹介していきましょう。
疑問が付く「悲愴」
第1楽章のハ短調の和音
「悲愴」は第1楽章の冒頭のハ短調の和音に疑問です。fpの記号で「ここだけ強く、そしてすぐに弱く」の指示なのですが、ギレリスはちょっと間の抜けたようなフニャッとした和音で弾くのです。後のフォルテの和音では「鋼鉄のタッチ」と評されたギレリスらしくガチッとしていますし、提示部の繰り返しの後に再現されるト短調の和音でも非常に力強いのですが、なぜか冒頭の和音だけがフニャッとしているのです。なぜ……
第2楽章のペダル
第2楽章のアダージョ・カンタービレ。カンタービレなので「歌うように」ですし、この曲はスラーでつながれる音が多いので、なめらかにペダルを多用する演奏でも合うと思います。
ただ、ギレリスのこの演奏ではペダルが少なめで、ポツポツとつぶやくように演奏されていくのです。ロマンティックな演奏を好む方には向いていないと思います。
滑らかな第3楽章
そして一転して第3楽章のロンドではペダルが第2楽章より多用されています。逆にこの曲はスタッカートが多い舞曲風の曲なので、キレのほうが大事だと思うのですが、ギレリスはこの第3楽章を滑らかに演奏していきます。
ただ、フォルテの力強さはギレリスならではですね。爆発するような力強さがあります。
いちいち楽譜を見ないで聴く方なら気にならないと思いますが、私はこの「悲愴」の第1楽章から第3楽章まで自分でも演奏して、楽譜もじっくり勉強したので、この曲でのギレリスのアプローチには疑問が残ります。
圧巻の「月光」
月光はさすがだなと思う素晴らしさ。第1楽章は静寂さの中に染み入るように旋律が奏でられます。
スラーの有無を弾き分けた第1楽章
最初は滑らかではなく音がポツポツ聞こえたので、ペダルをあまり踏んでいないのかなと思ったのですが、実はギレリス、楽譜でスラーが無いところとあるところで滑らかさを変えているようです。
こちらは「月光」のブライトコプフ版の第1楽章冒頭です。
ギレリスが使った楽譜は分かりませんが、とりあえずブライトコプフ版を見ながら聴いてみるとギレリスはスラーがあるところではペダルを使って滑らかに、スラーが無いところではペダルを少なめ、あるいは踏んでいないようです。こうした細かい変化をしっかりと弾き分けているのはすごいです。
武骨ながら第3楽章を予感させるアレグレット
第2楽章のアレグレットはかわいらしいというよりは武骨な感じがしますが、fpでの力強さが第3楽章を予感させるようです。ここでも中間部のトリオを含めて全て繰り返しの指示を守っています。
メラメラと燃える第3楽章
そして注目は第3楽章。こちらはライヴ録音に近い力強さがあります。繰り返しもちゃんと守っていますし、テンポも若干遅くはなりましたが、ものすごい集中力で、メラメラと燃えるような感情の高まったまま突き進みます。
雄大な「熱情」
「熱情」は全集の企画の初期のほうの1973年の録音。「悲愴」と「月光」が1980年でデジタル録音でしたが、この「熱情」はアナログ録音。やはり音質は若干落ちます。少しこもった感じがします。
ギレリスの「熱情」と言えば、ブリリアント・クラシックスからリリースされた1961年1月のライヴ録音(FC2ブログ)を一度聴いてしまうと、あれ以上の演奏はないように思えてしまうのですが、この1973年のドイツ・グラモフォン盤ではより模範的な演奏を目指したような印象です。
第1楽章は雄大に、第2楽章は軽やかに、そして第3楽章は淡々と進んでいきます。特に第3楽章はライヴ録音のときの激しさが薄まってしまっている印象です。
休符?単なる編集ミス? 不思議な第3楽章の冒頭
不思議なのは第3楽章冒頭のff(フォルテッシモ)の部分。ここでは第3小節で長短長短の長さの音符になっているのですが、ギレリスの録音を聴くと、下のピンクで囲った部分の音が短く演奏され、休符が入って2音目が演奏されているように聞こえます。
ギレリスの使用した楽譜は不明ですが、ここの音をなぜ短くしたのか、その理由がよく分かりません。別の録音をつなぐときの単なる編集ミスで音が無いところが生まれてしまったという仮説も考えられます。いずれにせよ、謎が残ります。
常識的な第3楽章のテンポ
1961年のモスクワでのライヴ録音での第3楽章は、再現部末尾のリピート指示は省略し、プレストのコーダでのリピートは守って演奏時間が4分33秒でした。展開部から再現部の部分が2分12秒でしたので単純に足し算するとリピートをおこなっていたら6分45秒というとんでもない速さになります。同じソ連出身で同門のスヴャトスラフ・リヒテルがニューヨークで1960年におこなったリサイタルで7分13秒という速さで駆け抜けましたが、翌年のギレリスはそれを上回る速さだったわけです。
一方でこの1973年のスタジオ録音では、第3楽章の演奏時間は7分53秒。だいぶ「常識的」なテンポになった印象です。クラウディオ・アラウの1965年の「熱情」の録音で感じたような雄大さがこのギレリスの演奏にはあります。和音はだいぶ力強いです。
まとめ
エミール・ギレリスが遺したベートーヴェンのピアノ・ソナタ選集から三大ソナタのアルバムを紹介しました。ブリリアント・クラシックスでのライヴ録音の演奏を聴いてしまってからはこのスタジオ録音に物足りなさを感じるようになってしまいましたが、前者はライヴならではの一期一会の演奏、そして後者は後世に遺る模範的な演奏を目指したのかと考えています。「月光」が特に素晴らしいと思いました。「悲愴」はちょっと解釈に謎があるところがあり、「熱情」もライヴ録音のほうが良いかと思いますが、どれも高い水準なのは間違いないです。
オススメ度
ピアノ:エミール・ギレリス
録音:1973年6月(熱情), ベルリン・ヨハネ修道院,
1980年9月(悲愴、月光), ベルリン・イエス・キリスト教会
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試聴
iTunesで試聴可能。
受賞
特に無し。
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