第九とウィーン
楽聖ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはドイツのボン生まれの作曲家ですが、音楽の都オーストリアのウィーンで活躍しました。最後の交響曲第9番「合唱付き」はその名の通り第4楽章に合唱が加わりドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』を歌うというスケールの大きな作品。
この第九交響曲は古今東西、録音も数多いですがこちらの記事で私がこれまでに聴いたレコーディングの中でオススメの録音を紹介しています。
第九の初演をおこなったのもウィーンのケルントナートーア劇場。大規模な編成のため、初演時には劇場付属のオーケストラだけではなくウィーン楽友協会のオーケストラのメンバーもエキストラとして参加しています。
そのウィーン楽友協会のオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による第九の録音は、伝説の名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーによる5種類のライヴ録音(1951年1月7日、1951年8月31日、1952年2月3日、1953年5月30日、1953年5月31日)がある他、ステレオ録音ではハンス・シュミット=イッセルシュテット (1965年)、カール・ベーム (1970年)、レナード・バーンスタイン (1979年)、カール・ベーム再録音 (1980年)、クラウディオ・アバド (1986年)、サー・サイモン・ラトル (2002年)、クリスティアン・ティーレマン (2010年)、アンドリス・ネルソンス (2018年)があります。
こちらが私が持っているウィーンフィルによる第九のCDたち。
持っていないのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとハンス・シュミット=イッセルシュテットですが、こちらはApple Musicのストリーミングで聴きました。
ウィーンフィルによる第九、ここではステレオ録音を紹介していきます。
ウィーンフィル初の交響曲全集録音 ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 (1965年)
まず紹介するのがウィーンフィルにとって最初のベートーヴェン交響曲全集のセッション録音。1970年のベートーヴェン生誕200年に合わせて、イギリスのデッカ・レーベルでドイツの指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットと1965年から69年にかけて、デッカが所有していたウィーンのゾフィエンザールでセッション録音されました。
第九は全集の中では比較的初めの1965年12月8日から12日にかけて録音されています。小綺麗に整理されたアンサンブルで、情熱に偏ったり煽ったりするところもなく堂々と音楽が流れていきます。最近はウィーンフィルといっても荒々しい演奏がある中で、この時代ならではの気品があります。第2楽章でもモルト・ヴィヴァーチェでは几帳面なぐらい整頓されていて、音響の良さもあって左右のイヤホンからシンコペーションがはっきりと伝わってきます。続くトリオではややテンポを緩めてウィーンフィルらしい伸びやかな響き。永遠のような第3楽章の穏やかさと、トランペットを強調した激しい第4楽章との対比が見事です。
ソプラノ:ジョーン・サザーランド
アルト:マリリン・ホーン
テノール:ジェイムズ・キング
バス:マルッティ・タルヴェラ
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ウィーンの雅さと香りがする旧録 カール・ベーム (1970年)
ドイツ・オーストリア音楽に絶大な信頼を寄せられたカール・ベームは1970年から72年にウィーンフィルとベートーヴェンの交響曲全集をセッション録音しました。第九のアルバムが1970年度の日本のレコードアカデミー賞「交響曲部門」を受賞しています。
第九はその全集の最初に録音されたもので、1970年4月、ウィーンのジンメリンガーホフでレコーディングされました。このベーム盤もイッセルシュテット盤の古き良きウィーンの響きがします。
第1楽章は冒頭からすごいです。6連符の細かさによって薄いヴェールの上を断片的な動機が行き交い、第1主題がはっきりと現れてきます。ウィーンフィルの素朴でもあり雅でもあるこの響きはこの時代ならでは。第2楽章はモルト・ヴィヴァーチェ (ヴィヴァーチェより速く)という指示ですが、ベームはゆったりとしたテンポを取っています。これはスケルツォから続くトリオのテンポが速くなりすぎないようにするための措置のように思えます。第3楽章の美しさは本当に素晴らしいです。第4楽章ではオペラのようにドラマティックに主題が現れてきます。
ソプラノ:ギネス・ジョーンズ
アルト:タティアーナ・トロヤノス
テノール:ジェス・トーマス
バス:カール・リッダーブッシュ
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熱量高いライヴ録音 レナード・バーンスタイン (1979年)
今回紹介しているウィーンフィルの第九の中で、熱量が最も高いのがこのバーンスタイン盤。交響曲全集が1980年度の日本のレコード・アカデミー賞の交響曲部門と大賞を受賞しています。
第九は1979年9月2から4日のウィーン国立歌劇場 (シュターツ・オーパー)でのライヴ録音。映像でも残されていますが、この時代のウィーンでのバーンスタイン・フィーバーを感じさせる観客からの熱狂感があります。
第2楽章のモルト・ヴィヴァーチェは楽譜の指示どおりかなり速いテンポを取っていて、さらにトリオでは加速して駆け足気味。第4楽章のプレスティッシモの速さは尋常じゃないです。耳が聴こえなかったからこそオーケストラと歌い手の限界に挑ませるようなベートーヴェンのスコアに、バーンスタインは逃げずに堂々と対峙しています。白熱したフィナーレはまさにバーンスタインならでは。
ソプラノ:ギネス・ジョーンズ
アルト:ハンナ・シュヴァルツ
テノール:ルネ・コロ
バス:クルト・モル
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よりゆったりとした最晩年の新録 カール・ベーム (1980年)
カール・ベームが最晩年(亡くなる9ヶ月前)の1980年11月にウィーンフィルと再録音した第九。旧録音がジンメリンガーホフ (Simmeringer Hof)だったのに今回はウィーンフィルの本拠地である楽友協会の大ホール(ムジークフェラインザール)でのセッション録音。
こちらの記事で紹介していますが、テンポが旧録音よりもゆったりとしていて、演奏時間は1970年のものよりも軒並み長くなっています。
第1楽章 16:46 → 18:44
第2楽章 12:08 → 13:22
第3楽章 16:38 → 18:19
第4楽章 Presto 6:43 → 7:30
Presto – 「おお友よ、このような音ではない!」 20:26 → 21:07
プラシド・ドミンゴが回想録で「大抵の指揮者は急かしすぎるか、または息が続かないくらい遅すぎるテンポで我々はほぼ死にそうにさせられます。ベームのテンポは、実に的確でした。全員を一人残らずコントロールし、ソリストにも、コーラスにも、オーケストラにも正確な出だしの指示を出し、自らの任務に全霊を込めて打ち込むのです。」と歌手目線から称賛している演奏。
音楽の流れはより雄大に力強くなっています。
ソプラノ:ジェシー・ノーマン
アルト:ブリギッテ・ファスベンダー
テノール:プラシド・ドミンゴ
バス:ヴァルター・ベリー
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ウィーンの伝統に情熱をスパイス クラウディオ・アバド (1986年)
ウィーンフィルの母体であるウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めたクラウディオ・アバド。1985年から89年にベートーヴェンの交響曲全集を録音しています。ベルリンフィルとの2000〜01年のライヴ録音ではアバドらしい情熱がみなぎっていましたが、こちらのウィーンフィル盤はアバドの個性はやや控えめでオーケストラの持ち味を出したという感じ。
第九は1986年5月のライヴ録音で、特に第4楽章のフガートで弦がはちきれんばかりに力強いところが印象的です。
ソプラノ:ガブリエラ・ベニャチコーヴァ
アルト:マルヤーナ・リポフシェク
テノール:エスタ・ヴィンベルイ
バス:ヘルマン・プライ
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新原典版を使用したクセのある個性派 サー・サイモン・ラトル (2002年)
ウィーンフィルと21世紀最初のベートーヴェンの交響曲全集に取り組んだのが、イギリス出身の指揮者、サー・サイモン・ラトル。2002年4月29日から5月17日のわずか3週間で、ウィーンフィルとベートーヴェンの交響曲全集をライヴ録音しています。ラトルは新しい音楽研究を次々に採用する指揮者ですが、ここでもジョナサン・デル・マー氏が発表した新原典版(ベーレンライターのジョナサン・デル・マー校訂版)のスコアを取り入れています。
ラトルは後にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンの交響曲全集を再録音しますが、ベートーヴェンを「所有」したことがないイギリス出身のラトルならではの独自性があります。現代的な感性と伸び縮みするテンポで巧みにドライブします。
個性的なのは合唱が入る第4楽章後半。ラトルと繋がりの深いイギリスのバーミンガム市交響楽団合唱団を連れてきていますが、トラック5の16分29秒あたりでラトルはコーラスのボリュームを突然下げて、代わりに最高音のピッコロのスタッカートの音を際立たせます。この解釈は斬新で私は他では聴いたことがないです。フィナーレのプレスティッシモはやや遅めにしてコーラスに無理のないテンポを選んでいます。
ソプラノ:バーバラ・ボニー
アルト:ビルギット・レンメルト
テノール:クルト・ストレイト
バス:トーマス・ハンプソン
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対向配置、ブライトコプフ旧版によるアナクロニズムを発揮 クリスティアン・ティーレマン (2010年)
ドイツの重鎮指揮者であるクリスティアン・ティーレマンは2008年から10年にかけてウィーンフィルとベートーヴェン・チクルスを実施。ライヴ映像がC MajorレーベルからDVD/Blu-ray でリリースされ、2011年度の日本のレコード・アカデミー賞の特別部門 ビデオ・ディスク「コンサート&ドキュメンタリー」を受賞しました。ソニー・レーベルから音源のみでCD としてもリリースされています。DVD には批評家ヨアヒム・カイザーとの対談付きでティーレマンの解釈がより言葉で理解できます。カイザーから「冒険好きの保守派」と評されたティーレマン。
ラトルが最新の音楽研究を取り入れる指揮者だとしたら、ティーレマンは過去のスタイルにこだわるタイプ。この交響曲全集でも新版が既に出ているのにブライトコプフの旧版を使用したと伝えられています。ムジークフェラインザールでのライヴ録音で、映像でも確認できますが、ウィーンフィルは対向配置 (両翼配置)となっていて、第2ヴァイオリンが指揮者の右手にいます。これによって第2楽章のフガートでの第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いなど、ステレオ効果が出ています。
カイザーから第1楽章の冒頭がブルックナーのようだと言われていましたが、6連符を弱いながらもはっきりと演奏させたことによってブルックナーの交響曲の始まりのような霧のような効果が生まれています。ゆったりとしたとテンポによる骨太の演奏。
ソプラノ:アネッテ・ダッシュ
コントラルト:藤村実穂子
テノール:ピョートル・ベチャワ
バス:ゲオルク・ツェッペンフェルト
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いまウィーンフィルと懇意な指揮者 アンドリス・ネルソンス (2018年)
名門レーベルのドイツ・グラモフォンが2020年のベートーヴェン生誕250年のアニバーサリーの目玉としてウィーンフィルとの交響曲全曲録音に選んだのが、1978年のラトビア出身の指揮者、アンドリス・ネルソンス。ウィーンフィルとは2020年のニューイヤー・コンサート、2022年のサマーナイト・コンサートでも共演していて懇意な指揮者の一人です。
交響曲全集が日本のレコード・アカデミー賞及びレコード芸術のリーダーズ・チョイス1位を獲得していますが、いまいち評価しづらいのがこのネルソンス盤ではないでしょうか。
第1楽章の冒頭はクレッシェンドからフォルテッシモで第1主題に入るのですが、他の演奏家がクレッシェンドをフォルテ以上に十分大きくしてからフォルテッシモにつないでいるところ、ネルソンスはメゾ・フォルテぐらいまでしか強くせずに、長めの休符を入れて一気にフォルテッシモにしています。序奏の延長にせず、明らかに第1主題を独立したものとして浮き上がらせています。
また、ドイツ・グラモフォンの公式YouTubeにライヴ映像がありますが、第4楽章のクライマックスで合唱が入るところでオーケストラに対して「シッ」と静かにするように指示し、コーラスに対して音量を出すようなジェスチャーをしています。そのため、コーラスの旋律はくっきり聴こえますが、その一方でウィーンフィルがやや遠慮がちな演奏になってしまっています。またネルソンスも頻繁にスコアに目を配っていて、この曲に演奏慣れしていないのかなという印象。
ティーレマンの第九のときは満席だったムジークフェラインザールが、空席が少しあるのが気になりました。ウィーンでの前評判はそこまでだったのでしょうかね……
第4楽章のコーダもややゆったりしていて、プレスティッシモもそこまで速くありません。楽譜の指示を鵜呑みにせず、演奏者と歌い手に無理のないテンポというのが多くなってきた印象です。
ソプラノ:カミラ・ナイルンド
アルト:ガーヒルド・ロンバーガー
テノール:クラウス・フロリアン・フォークト
バス:ゲオルク・ツェッペンフェルト
試聴
Apple Music で試聴可能。
まとめ
第九という名曲をウィーンフィルで聴く幸せ。個性的な演奏それぞれを紹介しました。
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