指揮者ベルナルト・ハイティンクの評価
ベルナルト・ハイティンクは1929年生まれのオランダ出身の指揮者。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を27年間務めた後、ヨーロッパやアメリカの主要オーケストラのポジションを歴任し、客演も多くおこないました。2年前の2019年に90歳を迎え、この年に指揮を引退しましたが、65年以上の指揮者としてのキャリアを積んで世界を股にかけるという言葉が合うほど各国の名門オーケストラの指揮台に立ってきました。
2019年、最後のザルツブルク音楽祭出演となった演奏会では、こちらの記事に紹介していますが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏はエマニュエル・アックス)、そして後半は得意のブルックナーの交響曲第7番でした。どちらも悠久という表現が似合うような演奏で、自然体の境地に行き着いたハイティンクの締めくくりでした。
ベルナルト・ハイティンクは21世紀を迎えてから「巨匠」指揮者と呼ばれることが多くなった印象ですが、クラシック音楽ファンや評論家の中では、「ベスト」の指揮者に挙げる方は少ないのではないでしょうか。少し前の世代の指揮者では、ヘルベルト・フォン・カラヤンはオーケストラの機能性と「カラヤン美学」と言われるほどの美しさを引き出していましたし、レナード・バーンスタインは音楽に陶酔したような演奏でしたし、ゲオルグ・ショルティはリズムに厳格でオペラのようなドラマチックな表現力がありました。ハイティンクと同時代の指揮者、カルロス・クライバーはカリスマぶりを発揮して引き込まれるような演奏でしたし、クラウディオ・アバドも燃えるような情熱的な演奏が特徴的でした。
それに比べると、ハイティンクの演奏は「中庸」を行くというか、印象に残りにくい演奏でしょう。スコアを徹底的に読み解いてバランス良くオーケストラの各楽器を響かせて立体的なハーモニーを作ることに長けていたので、例えば1980年のベートーヴェンの第九のライヴ録音はそれぞれの声部がはっきりと聴こえる演奏ですごいと思いました。
幅広いハイティンクのレパートリー
ハイティンクはレパートリーがかなり広いので、どれがオハコとする作曲家だったのか分かりづらいとは思います。私が思うハイティンクの得意な作曲家は、ブルックナー、マーラー、そしてショスタコーヴィチだと考えています。ブルックナーはキャリアの初期からずっと指揮している作曲家ですし、マーラーも録音も数多いです。ショスタコーヴィチはソ連以外の出身の指揮者としては初めて交響曲全集を完成させ、作品の作曲背景よりも音楽性を引き出した普遍的な演奏でした。
ハイティンクの膨大なマーラーの録音
ハイティンクのマーラーの演奏の特徴は、徹底したバランス感覚や作品にのめり込まない客観的な演奏という点があります。バーンスタインのような没頭する感じのドロドロとしたマーラーや、アバドの燃え上がるようなマーラーが好みの方には物足りないと思えるかもしれません。ラファエル・クーベリックの室内楽のようなこじんまりとしたマーラーよりはスケールが大きいですが、ショルティほどのダイナミックさまではいきません。だから中庸だと感じるのでしょう。
ただ、なぜ私がハイティンクの録音を数多く聴いてきたかと言うと、ハイティンクが指揮すれば演奏水準がそれなりに高いというのもありますが、演奏する際に自分の色を付けるのではなく、スコアに忠実で、どう作曲家が遺した偉大な音楽を引き出すかに注力し、誠実に演奏しているからです。
マーラーについてもハイティンクが指揮した演奏・録音は数多く、交響曲全集ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1962-1971年)、交響曲選集ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との再録音(1982/1983年)やクリスマス・マチネ・コンサート(1977-1987年)、そしてベルリンフィルとの全集を企画して頓挫した選集(1987-1993年)、2000年以降もコンセルトヘボウ管やシカゴ響、バイエルン放送響などとのライヴ録音もあり、本当に数多いです。
あまりに多すぎてこれからハイティンクのマーラーを聴いてみようと思う方にこの航海をさせるのは時間が掛かりすぎると思いますので、私自身が聴いてきた中でハイティンクのマーラー録音のオススメをまとめたいと思います。
私がオススメなのは、交響曲選集ではベルリンフィルとの選集。次に、コンセルトヘボウ管とのクリスマス・マチネ・コンサートのライヴ録音集です。第9番だけならバイエルン放送響との2011年のライヴ録音がオススメです。
さて、それでは年代順に紹介していきましょう。
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1962年〜1987年)
1961年から1988年まで長期に渡ってロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就いていたベルナルト・ハイティンク。1961〜1964年はオイゲン・ヨッフムとの二頭体制でしたが、1965年からはまだ35歳という若さでこの重責を追っています。
ハイティンクは首席指揮者就任2年目の1962年から早くもマーラーの交響曲全集に着手しています。この時代の演奏は、まだ若々しくて武骨な感じがするのでベストではないですが、この時期にしか聞けないフレッシュさがあります。
交響曲全集 (1962-1971年)
最初の交響曲全集はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と1962年から1971年にかけてレコーディングされました。まだハイティンクの進化過程が伺える演奏で、後の再録と比較すると興味深いです。
コンセルトヘボウ管はクリスマスの12月25日に、昼に短い演奏会をおこなうマチネ・コンサートをおこなっています。ハイティンクはコンセルトヘボウ管と1977年から1987年にかけてマーラーの交響曲を1曲ずつ演奏してこれも交響曲選集としてリリースされています。この時期には珍しいハイティンクのライヴ盤なので、かなり貴重です。
マチネ・コンサート (1977-1987年)
マチネ・コンサートとは、昼に行う短めの演奏会のこと。ハイティンクはコンセルトヘボウ管とのクリスマスのマチネ・コンサートにマーラーの交響曲を取り上げてきました。第6番と第8番、大地の歌を除く交響曲が録音されています。この当時のハイティンクにしては珍しいライヴ録音で、ライヴならではの白熱した演奏になっています。
そしてハイティンクはコンセルトヘボウ管と1982年に交響曲第7番「夜の歌」、1983年に交響曲第4番の再録音をおこなっています。デジタル録音になったこともあり、演奏がより鮮明になっています。
交響曲第7番「夜の歌」 (1982年)、交響曲第4番 (1983年)
1960年代から70年代前半の交響曲全集とは違う再録音で、デジタル録音で良好な音質で聴けます。ハイティンクの解釈も円熟されてきています。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1987〜1993年)
ヘルベルト・フォン・カラヤンが没した後、ベルリンフィルを支えたのがクラウディオ・アバドやベルナルト・ハイティンクなどの指揮者たち。ハイティンクは所属するフィリップス・レーベルとの企画でベルリンフィルとマーラーの交響曲全集を作成する予定で始められたのですが、フィリップスの経営危機により、途中でプロジェクトが白紙になってしまいました。結果として第8番と第9番を除く交響曲7曲と第10番の第1楽章が収録されました。
ハイティンクのマーラーはベルリンフィルの演奏会でも好評だったようですが、この選集で聴ける演奏もハイティンクの充実ぶりとベルリンフィルの高い機動力が聴き応えがあります。
交響曲選集 (1987-1993年)
ベルリンフィル初のマーラー交響曲全集となる予定で進められてきた録音。結局打ち切りとなってしまい、第8番と第9番は収録されませんでした。ただ、ベルリンフィルの重厚感ある良好なサウンド、そしてハイティンクの推進力ある指揮で、ハイティンクのマーラー録音ではベストなのではないでしょうか。
ECユース・オーケストラ(1993年)
ベルリンフィルとの交響曲選集では第8番「千人の交響曲」と第9番が録音されませんでしたが、選集でベルリンフィルとの最後となった1993年1月の第2番の後、ハイティンクは1993年4月にECユース・オーケストラの演奏会で交響曲第9番を演奏しています。これが録音もされていたので、タワーレコードから2011年9月に国内初リリースされましたが、幻となったベルリンフィルとの第9番がこういう感じで演奏されたのでは、と想像力を掻き立てる演奏になっています。
交響曲第9番 (1993年)
ハイティンクがECユース・オーケストラを指揮したライヴ録音。ベルリンフィルとの交響曲集では含まれなかった第9番が、同時期のハイティンクの指揮で聴けるのはとても貴重です。
ライヴなので演奏のキズや客席のノイズはありますが、若い演奏家のエリート集団ECユース・オーケストラのメンバーが巨匠ハイティンクの指揮に必死に付いて行っているような一期一会の演奏です。
シカゴ交響楽団(2006〜2008年)
バレンボイム時代に停滞期に陥ったシカゴ交響楽団が再起を図るために首席指揮者に選んだのがベルナルト・ハイティンク、名誉指揮者にはピエール・ブーレーズ。ハイティンクは2006年から首席指揮者に就任し、シカゴ響が持つポテンシャルを引き出す演奏をおこなってきました。マーラーのライヴ録音もシカゴ響の自主レーベルCSO-Resoundから交響曲第1番「巨人」(2008年5月のライヴ)、第6番「悲劇的」(2007年10月のライヴ)、第2番「復活」(2008年11月ライヴ)がリリースされています。ゆったりとしたテンポで、シカゴ響のスケールを活かしつつ、行き過ぎることのない中庸な演奏です。
交響曲第6番「悲劇的」(2007年)
ここでは2007年10月のマーラーの交響曲第6番「悲劇的」のライヴ録音。「一切の誇張を排した演奏」と評された演奏で、「悲劇的」という副題にとらわれずに楽譜から読み取れる純粋な音楽をゆったりとしたテンポで丁寧に引き出しています。
バイエルン放送交響楽団(2005年〜2016年)
ハイティンクは晩年にバイエルン放送響の指揮台にも度々登壇し、円熟味を増した指揮でマーラーの交響曲もライヴ録音しています。
交響曲第4番 (2005年)
ハイティンクにとっては何度も演奏、録音した作品で、この演奏もバランス感覚に優れた期待どおり素晴らしい出来。
交響曲第9番 (2011年)
マリス・ヤンソンスの代役で、バイエルン放送響を指揮した2011年12月、ミュンヘンのフィルハーモニー・ガスタイクでのライヴ録音。
ドイツECHO Klassik2013の最優秀管弦楽録音(Sinfonische Einspielung des Jahres)と、マーラー賞(Toblacher Komponierhäuschen)2012を受賞しています。
交響曲第3番 (2016年)
2016年6月にフィルハーモニー・ガスタイクでおこなったバイエルン放送交響楽団とのマーラーの交響曲第3番の演奏が、BR Klassikからリリースされています。自然体の境地、卓越した奥深さ。マーラーの楽譜から深い慈愛に満ちた演奏を聴かせてくれます。
コンセルトヘボウ管(2011年)
交響曲第9番 (2011年)
マーラーの生誕100周年のアニバーサリー・イヤーに、コンセルトヘボウ管は精力的にマーラーの作品を演奏しました。2011年5月の交響曲第9番の演奏会の指揮台に立ったのは、ベルナルト・ハイティンク。
まさにベテランと言うべき自然体の演奏をおこないました。
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